「粟国島」について
村花・村木・村花木 |
村花 (テッポウユリ) |
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村木 (フクギ) |
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村花木 (ソテツ) |
位置 |
粟国村は、那覇の北西約60kmの海上、東経127度13分、北緯26度34分に位置する1島1村で周囲約12km、面積7.64kmを有している。 東方に沖縄本島、南に慶良間諸島、渡名喜島と並び南西に久米島が遠望できる。 |
地形 |
西側が高く絶壁で東に向かって次第に低くなっていきます。遠くからみると、巨大なクサビのように見えます。西側が高くなったわけは、もともと西側に陸地があったことと、陸地が広がったときに、西側ほど大きく隆起したことによります。その隆起運動で出来た断層が筆ん崎から西集落にみられます。 字西御願の植物群落のところにある北東-南西方向の崖は、このような断層によって地面がずれてできたものです。島の北西側から筆ん崎をまわって粟国港にかけての南海岸に見られる崖を海食崖といいます。海食崖は海水の侵食作用よってできたもので、削られて平らになった部分を波食台といいます。 洞寺の北側では海食崖が陸地の中に出来ていて、これは昔できた海食崖がその後の地殻変動で隆起して陸地になったものです。 字浜と字東の間に、南西-北東に伸びた地形の高まりは、昔この地帯がまだ海であった時代のリーフの跡だと考えられます。 東海岸のウ一グには高さが15mほどの砂丘が発達していますが。これは風によって海から有孔虫などの砂が運ばれて堆積したものです。 |
地層・岩石 |
筆ん崎付近から粟国港にかけての島の南西部に分布する地層(岩石)は、火山の噴火によってできたものです。筆ん崎の北北東約1kmの皆越原の海岸にはデイサイト(石英安山岩)があり、これは島で最も古い岩石です。西毛平原の海岸から粟国港にかけては玄武岩、安山岩、凝灰岩、及び凝灰角礫岩が広く分布しています。また筆ん崎付近には白色凝灰岩と凝灰角礫岩が広く分布している。白色凝灰岩には木の葉の化石や巻き貝の化石、ときには火山豆石なども含まれ、凝灰角礫岩には真珠岩という珍しい岩石の礫も見られます。島を広く覆って分布しているのは琉球石灰岩です。琉球石灰岩は、有孔虫の多い砂質石灰岩の部分とサンゴ化石の多いサンゴ石灰岩に分けられます。 島の東海岸にほビーチロックが分布し、厚さ1.5m程度のビーチロックは緩く海に傾斜し塊状のサンゴやシャコ貝片を多く含んでいます。 |
歴史 |
旧藩時代 | |
1611年 (慶長16年) |
番所が浜に設置され、初地頭代が任命される。 |
1725年 (享保10年) |
在番が置かれる。 |
1734年 (享保19年) |
夫地頭が置かれる。 |
廃藩置県後~大正 | |
1879年 (明治12年) |
廃藩と同時に八重村は廃止し、新たに西村、東村が設置された。 |
1882年 (明治15年) |
久米島代官管轄から那覇所轄となる。 |
1898年 (明治31年) |
粟国尋常小学校児童生徒35名で授業開始。 |
1899年 (明治32年) |
初代島長に与那城菊太郎が任命される。 |
1903年 (明治36年) |
西村、東村、浜村が廃止、区制施行され、字西、字東、字浜と改称される。 |
1909年 (明治41年) |
市町村制が布かれ粟国村となる。 |
1910年 (明治42年) |
初代村長に初代島長の与那城菊太郎が再任される。 粟国郵便取扱所が設置される。 |
1920年 (大正9年) |
一般町村制が施行され、村長は初めて議会で選出される。 字浜に置かれていた番所は、字東に移され、現在の役場になっている。 |
昭和 | |
1945年 (昭和20年) |
3月23日最初の空襲。6月9日米軍上陸。 |
1963年 (昭和38年) |
農産漁村電気導入促進法により発電能力50KWで事業開始。 |
1978年 (昭和53年) |
粟国島灯台業務開始。粟国空港開港。 |
1979年 (昭和54年) |
電話ダイヤル化 |
1983年 (昭和58年) |
防災行政無線導入。 |
平成 | |
2000年 (平成12年) |
電話回線ISDN化 |
2001年 (平成13年) |
海水淡水化施設完成 |
2004年 (平成16年) |
焼却施設「美ら島あぐにクリーンセンター」可動 |
2006年 (平成18年) |
電話回線ADSL |
行事 |
詳細 | ヤガンウユミ |
詳細 | マースヤー(準備中) |
詳細 | ウクシ(準備中) |
本文は、「粟国村誌」および「粟国村製要覧」より抜粋しました。